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帝國博物学協会
武蔵國
江戸城
 所在地 東京都千代田区1 他
 交通機関 地下鉄丸の内線大手町下車 徒歩10分 他
 別  名 千代田城・東京城・皇居
 略  歴 この地には、平安末期〜鎌倉初期に江戸重継が居館を置いており、その後江戸氏の本拠地となった。
江戸氏はその後北条得宗家の被官となっている。
南北朝期に入ると、当初江戸氏は新田義貞に従って南朝方として戦ったが、後に鎌倉公方足利基氏に従った。
この頃関東では新田義興がゲリラ的な戦いを行っており、これに手を焼いた基氏の執事畠山国清は江戸遠江守・下野守に義興の暗殺を命じた。
この暗殺事件は成功するが、これにより江戸氏の信用は失墜し、却って勢力を失い、結果となった。
康正2(1456)年、扇谷上杉持朝の家臣太田道灌はこの江戸氏の館跡に新城を築城した。これが江戸城である。江戸城は翌長禄元(1457)年に完成したと鎌倉大草紙に記されている。
道灌の時代の江戸城には、静勝軒と呼ばれた楼閣が建てられていたとされ、中心となる台地上に根城・中城・外城の3曲輪が置かれ、台地下にも堀を廻らした総曲輪を置いていた。
道灌は、その名声を嫉んだ主君扇谷上杉定正によって文明18(1486)年、糟谷館で暗殺された。この際に「当方滅亡!」と叫んだといわれるのは有名である。
明応3(1494)年、定正の後を継いだ上杉朝良は、武蔵川越城に進出するが、山内上杉顕定との戦いに敗れて、江戸城に退いている。
永正13(1516)年、三浦道寸を新井城に滅ぼした小田原北条氏は、本格的な武蔵進出を開始した。
北条氏綱は大永4(1524)年、内応した太田康資の手引きで、扇谷上杉朝興を川越城に追って江戸城の奪取に成功した。
氏綱は、康資を稲付城に移して、江戸城には遠山綱景を城将として置いた。
永禄の頃になると、岩付城の太田資正は、扇谷上杉朝興と共同して江戸城の奪回作戦を展開、永禄3(1560)年には葛西城の奪回に成功している。
江戸城の城代は、その後3代に渡って遠山氏が受け持ったが、天正18(1590)年に発生した小田原の陣では、前田利家・浅野長吉らの攻囲に開城している。
北条氏が滅ぶと、徳川家康が駿河駿府城から、徳川家康が入城した。
慶長8(1603)年、家康は将軍宣下を受けると、武家の頭領に相応しい大規模な城郭へと改築をはじめた。
これには主に外様大名が動員され、将軍の居城として家光の時代まで整備され続けた。
江戸城の天守は、家康期・秀忠期・家光期と3代の天守が存在したが、明暦3(1657)年に発生した明暦の大火(振袖火事)によって多くの殿舎とともに焼け落ちて以降再建される事はなかった。
徳川将軍家の在城期に数度に渡り大火が発生し、本丸を含む多くの建物が灰燼に化した。特に幕末に発生した火災は本丸の建物のほとんどを焼いてしまい、以後再建される事はなかった。
明治維新後、東京城(皇居)となった江戸城は、外郭・内郭の多くの堀が都市化の波に埋め立てられた。また、太平洋戦争では多くの貴重な文化遺産が、東京大空襲などの空襲で失われたのは、非常に残念なことである。
 現  況 現在、本丸址は皇居東御苑として公開されており富士見櫓や百人番所などの建物や平河門などの内郭門と共に石垣など良好な状態で残されている。
また、西之丸・吹上は皇居となっている。北の丸には日本武道館が建てられており、田安門と清水門が残されている。
江戸城外郭には多くの見付と呼ばれる外郭の門があった。現在ではほとんどの遺構が失われているが、それでもいくつかの見付で脇石垣などの遺構を見ることができる。
外郭

一橋門跡

一橋家屋敷跡

日比谷見付跡

日比谷見付跡

心字池と石垣

常盤橋門跡

常盤橋門跡

牛込門跡

牛込門跡

牛込門跡

牛込門跡

牛込門跡
北之丸

竹橋門跡

竹橋門跡

北之丸石垣
と清水濠

清水門二之門

清水門一之門

清水門桝形

田安門二之門

田安門一之門

千鳥ヶ淵

牛ヶ淵
西之丸下

西之丸下
和田倉門跡

外桜田門二之門

西之丸下石垣

外桜田門一之門
西之丸

伏見櫓

坂下門

吹上門

西之丸石垣

西之丸内堀
と石垣
吹上郭

弁慶濠と
吹上鉢巻石垣

弁慶濠と
外桜田門遠望

吹上鉢巻石垣

半蔵門

吹上鉢巻石垣
と半蔵濠

乾門

山里門
三之丸

平河門

桔梗門
(内桜田門)

辰巳櫓

大手門

三之丸内から見た
大手門
二之丸

二之丸

百人番所

二之丸内から
見た内平河門

内平河門

大手下乗門二之門

大手下乗門一之門

同心番所

本丸
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